西彼エリア Area

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八木原郷の沖合に小島が南から北へと点々と連なっている。そのなかに玉子島、千鳥島がある。玉子島は楕円形の30坪ほどの広さの島で、この島の南側の海岸には一対の石燈籠が残り、島の中央に石の祠がある。これは、玉依姫を祀っていると伝えられている。千鳥島に「千鳥之霊」と刻した小碑がある。平敦盛の妻玉依姫はその侍女の千鳥姫とその母淀姫(玉依姫の乳母)の三人で壇ノ浦の戦いに敗れた後、落ち延びてここに辿り着いたが、やがて捕らわれ玉子島、千鳥島にと分かれて住まわされた。淀姫は島を見下ろす対岸の丘の上に住まわされ、監視されていたという。
淀姫は菰を立てた小屋にいたので、現在の菰立の地名になったとか、丘の麓を流れる菰立川の川口附近に淀姫と呼ばれる地名が残っていると言われる。玉子島を眺める丘の上に石を刻んで像が祀られる。

現在は附近の人たちが祭りを行っているが、明治初年神社法が出されるまでは妙経寺で祀っていたと寺の記録にある。ここに自然石の高さ2メートル程の法塔が立っているが、これは明治32年10月の建立で、岳野忠政建立と記されている。
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亀浦郷の小干の浦。西村真珠公園の岬の突端に十字架を付した碑が建てられている。この碑のコンクリートの台の中には、この地に生まれた殉教者の四五郎左衛門とその子与介の遺骨が収められている。遺骨箱に打ちつけられてあった銅版にはスペイン文字で「この箱の中に至福なる殉教者、故四五郎衛門トマス72歳とその子与介ドミンコ37歳の二人の死体がある。この方々は1624年7月17日、大村領の村、小干の浦で棄教するのを拒んだので首を切られたのである。N・O・12、この箱は日本における聖ドミンコ会のものである。」と刻まれている。これが日本では唯一の殉教者の発見となる、昭和40年の春のことであった。
銅版は現在長崎二十六聖人記念館に展示され、この地に殉教碑が建てられた。

この二人の殉教者について、当時日本にいた宣教師からイエズス会に報告されていた。それによると、豊臣秀吉から始まるキリシタン禁令による弾圧はますます強くなり、四五郎左衛門とその子与介も当時潜かに藩内で布教していた宣教師を泊まらせていたとして捕らえられ、棄教を強いられるが、これに拒み、遂にみせしめのため小干の浦にて斬首されたと記されている。
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平原郷の山口原の盆地の小高い丘の上に相川勘解由左衛門尉義武の墓がある。相川勘解由は豊臣秀吉の文六禄慶長の役に一軍の将として出陣し、戦功を立てた武将であるが傷つき大村喜前に助けられ、戦後大村に引上げ、大村公の情により療養し形上に宅地を買い居住した。二代目藤佐衛門の時大村家に臣従し百石をもらって平原に移住してここを開拓したのである。四代目甚平のとき形上に祖先の墓があることを知り、代々祀っていたが280年ぐらいもたって明治30年頃現在の所に移したものである。
この墓碑は昭和6年2月に長崎県立図書館等の調査によって確認され、以後切支丹墓碑として貴重な存在となり、昭和47年、県の文化財史蹟に指定された。

当時は、キリシタン禁教による厳しい弾圧が行われていたが、その中でもこの墓碑は守られていた。滑石の自然石の中央に菱形の花十字模様が刻まれ、頭部にI・N・R・I(「ユダヤの王、ナザレのキリスト」)と横に刻まれてある。
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